(2)終戦~ベルリンの壁
第二次世界大戦で徐々にドイツの敗戦が濃厚になるにつれ、ベルリンは戦争の舞台となり、終盤の地上戦で中心部はほとんど廃墟
となった。ついに1945年5月8日ドイツは連合国の前に降伏するに至った。
連合国の占領下に入ったドイツは、連合国により4つの地区に分割され、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の占領軍司令が各
地区を統治するという形で軍政下に置かれた。それに伴い首都ベルリンも4つの占領地区に分割された。占領4か国の軍司令官で構成される連合国管理理事会にてドイツの今後が調整されることになった。ただし、アメリカとソ連のドイツ占領方針の食い違いが大きく、足並みは乱れた。その後、西側3か国は西側だけで「合同占領地区」として統合し、西側のみで通貨をライヒスマルクからドイツマルクへと切り替えた。さらにソ連によるベルリン封鎖で東西ドイツの分裂は決定的となった。
1949年に西側合同占領地区は連邦制と議会主義を基本とするドイツ連邦共和国(旧西ドイツ・首都はボン)へ、ソ連占領地区は社会主義統一党が支配するドイツ民主共和国(旧東ドイツ・首都は東ベルリン)として二つのドイツ国家が発足した。それに伴い、ベルリンも完全に別の国へと分断された。
西ドイツは「マーシャルプラン(アメリカのヨーロッパ経済復興援助計画)」による援助で、今までに類を見ないほどの速さで経済を復興させていった。1955年の主権回復と同時に西ドイツの北大西洋条約機構(NATO)参加、東ドイツのワルシャワ条約機構参加と東西ドイツは統一が遠のき完全に分裂した。
一方の東ドイツは戦後、現物賠償として工業施設のほとんどがソ連に持っていかれるというスタートで、マイナスからスタートしたと言っても過言ではない。その後、ウルブリヒトのもとで社会主義国家建設に邁進してゆく。そして悪名高き秘密警察機構シュタージによる監視社会へとなっていった。それを嫌う多くの東ベルリンの人々が西ベルリンを経由して西側へ移住していった。その数は250万人にも上っていた。それを見てソ連は1961年8月に突然「ベルリンの壁」の構築を始めた。
(3)ベルリン東西分裂
東西分裂後、西ドイツは日本と同様に奇跡の経済発展を遂げたのに対し、東ドイツは思ったような経済成長を遂げられなかった。徐々にソ連と同様に計画経済が硬直化していき、1980年代に入ると、はっきりとほころびを生じ始めていた。東ドイツの孤島となっていた西ベルリンは西ドイツでありながら、大規模な開発がなされないまま、ゆっくりとした成長にとどまっていた。一方の東ベルリンは完全に経済が行き詰まっていた。
(4)ベルリンの壁崩壊~ドイツ再統一
1980年代末にソ連の「ペレストロイカ」からの改革及び民主化の動きが東ドイツに波及
し始め、1989年11月9日に歴史的な「壁」の開放へとつながった。統一の形は東5州及び
新都市州ベルリンが西ドイツの連邦に加盟する形で行われ、翌1990年10月3日に連合国は
ベルリンの統治権を放棄し、完全に統一された。
(5)首都ベルリン
その際、ベルリンの区制は再編され、現在の12区へとなった。その後、旧西ドイツの首都であったボンからベルリンへの首都機能移転の議論が本格化し、1991年、連邦議会のベルリン移転決議を経て、1999年9月より移転が実施された。2001年5月に連邦首相府が完成し、新庁舎での公務が開始された。ベルリンの歴史的背景を述べてきたのは、歴史に翻弄された現在のベルリンは新たに生まれ変わったとても若い都市でもあるということを伝えたかったからだ。
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