月: 2018年2月

  • 映画とベルリン・ポツダムのつながり「ベルリン国際映画祭」と「バーベルスベルク映画製作所」

    映画とベルリン・ポツダムのつながり「ベルリン国際映画祭」と「バーベルスベルク映画製作所」

    ベルリン国際映画祭が開催

    「2018年ベルリン国際映画祭」ポスター(公式Twitterより)

    2/15~25の10日間、世界三大映画祭のひとつである「ベルリン国際映画祭(Berlinale)」が開催された。エキサイティングでコスモポリタンな文化の中心地であるベルリン、その抜群な多様性のセンスはベルリンを「映画の街」としても特徴づける。公式HPによると、ベルリン国際映画祭でのチケット売り上げ枚数は33.4万枚を超え、127の国と地域から約21,000人の映画関係者、約3,700名の報道陣が集まるそう。期間中は世界中から集まった約400本の映画が紹介されていく。「文化・アートのメッカ、ベルリン」のパワーが映画を通し世界中に共鳴する10日間、日本にもその熱気は伝わってきている。


    映画とベルリンの関係性は?

    なぜこのように映画とベルリンが深い関係にあるのだろうか?その理由は、「黄金の20年代」と呼ばれる1920年代の文化開花にまでさかのぼる。

    1918年、ドイツ帝国の降伏をもって第一次世界大戦が幕を閉じた。これと同時に「ヴァイマール共和国(ドイツ共和国)」が誕生し、ベルリンでも新しい都市の姿が模索されるようになった。これを受け1920年「新しい都市自治体ベルリンの創設に関する法律」が発効され、「大ベルリン(Groß Berlin)」が成立した。これによりベルリンは、全20区・面積約900㎢(ロサンゼルスに次ぐ当時世界第2位)、総人口380万人(ロンドン、ニューヨークに次ぐ当時世界第3位)を擁する近代的大都市となったのである。この勢いと戦後のインフレーションを受けながら、ベルリンは「黄金の20年代(Golden 20’s)」と呼ばれる文化開花時代を迎えた。

    この時代は、ベルリンの経済復興に目を付け各国から集まった富裕層・文化人・芸術家たちがメインアクターとなり、映画館・キャバレー・高級商業施設がベルリン西部のツォー駅(Zoologischer Garten)やクルフュステンダム通りに軒を連ねたのである。ベルリンの市域が広がり、フリードリヒ通り(Friedrich Straße)やウンテル・デン・リンデン(Unter den Linden)に続く中心地が必要とされていたため、ツォー駅およびクーダム付近は副都心としての役割も担いながら、対外的・閉鎖的な「田舎のベルリン」というイメージを一新させる拠点となった。こうして「黄金の20年代」は開放的な文化の結節点として、世界を牽引するベルリンを生み出していったのであるベルリン国際映画祭は1951年に始まったものだが、西と東という対立軸が存在し始めた時代の中で、黄金の20年代から育ってきた西側の文化や芸術を東側へ誇示していきたいというメッセージがあったのではないかと考えられる。


    ポツダムも映画と縁が深い

    Studio Babelsberg外観http://wikimapia.org/1191576/Studio-Babelsberg
    Studio Babelsberg正門

    ベルリンの隣に位置するポツダムも、映画との縁がある。バーベルスベルク(Barbelsberg))にある映画製作所はその最たる例だ。ベルリンが映画を「観る」ことの聖地なら、ポツダムは映画を「撮る」ことの聖地と言えるだろう。バーベルスベルクスタジオは1912年に設立された世界最古にして最大の映画撮影スタジオであり、またヨーロッパのサービスプロバイダーを牽引する立場として様々な映画・映像・広告制作などに取り組んでいる。今日までの映画史はこのスタジオの歴史であると言っても過言ではなく、ここから日々名作が誕生しているのである。


    文化・芸術産業が街にもたらすもの

    ベルリン・ポツダムは度重なる破壊と更新を繰り返した世界史の中心的な場所である。そのような背景から、このエリアには地方分権の進むドイツにおいて長い間中心産業が育ってこなかった。旧東ドイツに位置しており、旧西ドイツの「強い工業」的特性を持つ州に対し戦後は圧倒的な差をつけられていた。しかしながら、このような歴史を辿ってきたからこそ、現在は映画のような文化・芸術産業がしっかりと地に根を張り、豊かに葉を付けるための土壌が育ってきたと言えるのではないだろうか。ドイツ全体に産業構造転換が起こり、ドイツ国内の様々な都市で代替産業が模索されているが、例えばベルリンやポツダムほど映画産業が根付く場所はないだろう。映画を作り、観るまでの環境が整っているベルリンとポツダムにおける益々の協働が期待される。

  • 在ドイツ邦人向けのフリーペーパー ”News Digest”に資産運用の豆知識を掲載

    在ドイツ邦人向けのフリーペーパー ”News Digest”に資産運用の豆知識を掲載

    在ドイツ邦人向けのフリーペーパー ”News Digest”にドイツでの資産運用に関する記事が掲載されました。

    http://www.newsdigest.de/newsde/features/9117-vermoegensverwaltung.html

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  • ベルリンと東京は似ている?

    ベルリンと東京は似ている?

    2018年2月5日は「ベルリンの壁が存在した日数」と「ベルリンの壁が崩壊してからの日数」が同じ10316日という大きな節目の日である。これについては以前ブログで『壁崩壊から28年、ベルリンは今』というタイトルのもと詳しく綴ってある。

    遠く離れたドイツと日本。しかしながら「ベルリン」と「東京」という都市にスポットを当ててみると、「姉妹都市」という文脈からその類似性が見えてくる。


    ベルリンと東京は「姉妹都市」である。

    ベルリン市と東京都は1994年から姉妹都市の関係にある。(参考:東京都政策企画局)

    姉妹友好都市関係樹立にともなう共同宣言
    姉妹友好都市関係樹立にともなう共同宣言

    【姉妹都市締結のあゆみ】

    ・1985年  ベルリン日独センター開館

    1994: 締結

    ・1999-2000年 「ドイツにおける日本年」900件の事業

    ・2005-2006年 「日本におけるドイツ年」1600件の事業

    ・2011年  日独交流150周年

    2014年  締結20周年


    姉妹都市とは (予備知識)

    豊田哲也氏『姉妹都市提携の変容と展望』(国際教養大学アジア地域研究連携機構研究紀要 (2), 9-22, 2016)によると、姉妹都市提携の概念については確立されたものが存在するわけではなく、姉妹都市提携の活動はヨーロッパと米国で展開された平和活動が起源になっているそうである。しかしながら、戦争体験が遠のくにつれてその目的が「文化・教育交流」や「経済連携」へとシフトしている。

    また、土田雅裕氏『姉妹都市交流事業の展開構造の分析』(都市計画論文集 (24), p403-408, 1989-11)によると、姉妹都市提携に至る過程(=”提携のモチーフ”)として、都市相互の「類似性」や既存の「関係性・つながり」などがあると指摘している。


     

    ベルリン-東京 姉妹都市締結のワケは?

    ベルリン-東京を結びつけるもの、それは「都市の歴史」とりわけ「戦後復興・戦災復興」である。

    共同宣言のなかには以下のような言葉があった。

    東京とベルリン、この両都市は、長い歴史のなかで多くの困難を克服しながら発展し、今やそれぞれの国の首都として、また世界の中心的な都市として、さらに大きく飛躍していこうとしている。

    2014年の提携20周年に寄せて、当時の東京都副知事である秋山俊行氏はベルリン日独センター広報誌において以下のようなコメントを残した。

    ベルリン市と東京都は、戦後、廃墟の中から復興と発展を遂げてきたという共通の歩みを持った都市です。

    また、東京で行われた提携20周年を記念したイベント『BERLIN x TOKYO デザイン、アート、カルチャー展〜新しいアイディアが生まれるすきま〜 』では以下のような紹介が行われていた。

    ベルリンはアーティスト、音楽家、オルタナティブな生き方を求める人の「遊び場」となり、廃墟を最大限活かした独特の進化をしてきました。東京は商業、デザイン、テクノロジーにおいて世界を牽引する大都市と成長しました。

    これまで何度かブログでもお伝えしてきたように、ベルリンは度重なる革命と戦争による激しい破壊・更新 を繰り返してきた都市である。20世紀に5度の国家体制崩壊という政治基盤の破壊・更新をはじめ、戦争による市街地の破壊・更新も著しかった(1945年、最後のベルリン守備隊が赤軍に降伏した際にはベルリンの中心部の約3分の2が破壊され、住宅地は約40パーセントが居住不可能な状態となった) 。また、東京も関東大震災や第二次世界大戦により大きな損傷を受けた都市である。当時東京は「帝都」とされていたが、日本全体を牽引するような力はなく、人々は東京の街で路頭に迷っていた。

    ベルリンと東京、この両都市において、破壊や更新の連続はただ単にネガティブなものではなく、いわば細胞の再生のように都市を生まれ変わらせていった。都市における傷を癒やそうとする力はマイナスをゼロにするだけでなく、プラスにまで到達するのである。ベルリンでは、破壊と更新の中で生まれた廃墟が貧しいながらも安価で暮らしやすい環境や創造力を発揮できる広大な空地となった。東京では、焦土の地で区画整理という手法が取り入れられたことにより、狭小の木造密集市街地からゆったりとした道路や公園が生まれた。また、どちらの都市も悲惨な歴史や体験を乗り越えたからこそ、人間の力や人々のつながりを非常に大切にしている。誰もが安全に、自由に暮らせる空間。活発なコミュニケーションの風土が豊かな芸術・思想・文化・伝統を生み出した。

    グローバル化が成熟し、少し世界が内向きになりつつある今、共通の歩みを辿ってきたという文脈のなかで生まれた姉妹都市「ベルリンと東京」は時代の転換期のなかで同じ使命を背負っているのかもしれない。佐藤智子氏・吉永馨氏『問題解決型姉妹都市交流 ―仙台市とリバーサイド市の事例研究―』(総合政策 = Journal of policy studies 18(1), 1-16, 2016-11)によると、姉妹都市を通しての問題解決型交流の可能性を指摘している。戦争体験から平和の尊さを深く理解しているベルリンと東京だからこそ、姉妹都市の絆と協働のパワーは大きい。経済・文化・教育交流だけではなく、これからの世界に待ち受ける様々な問題を、両都市が先陣を切って解決することが求められているのではないだろうか。

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