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駅名からたどるベルリンの歴史の足跡

  1. ベルリンの交通はBVG (Berliner Verkehrsbetriebe: ベルリン交通局)とDeutsche Bahn(ドイツ鉄道)による電車・バス・トラム・船で支えられている。中でも電車はSバーン(ドイツ鉄道による運営)とUバーン(ベルリン交通局による運営)がベルリン中を隅々まで網羅しており、住民や観光客の重要な移動手段となっている。ベルリンを訪れたことのある人はこの路線図を一度は見たことがあるだろう。今回はベルリンの駅名からの都市の成り立ちや拡大などといった「歴史の足跡」を探ってみたいと思う。

まずは基本事項から

駅名を読んでいくうえで、まずは地名や駅名を構成するドイツ語の基本単語をおさえておきたい。

ベルリンでの駅名のつけ方はバラエティに富んでいるが、このような単語を基本とした一定のルールを理解すればベルリンの街の成り立ちや大まかなイメージをつかむことができる。「門 (Tor) 」や「広場(Platz)」といったヨーロッパならではの都市の機能は頻繁に駅名に用いられるが、これはこのような都市機能が元来人の交流・交差の場であり、そこに駅が建設されるという流れがあるからであろう。

ベルリンの「端」をなぞる

ベルリンで「門 (Tor) 」のつく駅名をなぞってみると、昔のベルリンの端が見えてくる。

観光地としても有名なブランデンブルク門(Brandenburger Tor)もそのひとつである。現在も名前の通り「門」が残っているのはここだけだが、ここはかつてブランデンブルク地方への出入り口であったために、このような名前が付けられた。同じようなプロセスで「広場 (platz)」も名前がつくケースが多い。ブランデンブルク門にほど近いPotsdamer Platz(ポツダム広場)も、隣の街であるポツダムへの出入り口であった。現在Torのつく駅はどこもベルリンのメインエリアに位置しており、ベルリンが徐々に拡大してきたことが分かる。


大通りは旧東エリアが多い?

大通り (Allee)と名がつく駅名をチェックしていくと、そのほとんどが東エリアにあることが分かった。これには旧東ベルリンの都市計画と何か関係があるのだろうか?

①Lindauer Allee (U8) ②Schönhauser Allee (Ring) ③Prenzlauer Allee (Ring) ④Mehrower Allee (S7) ⑤Landsberger Allee (Ring) ⑥Frankfurter Allee (U5, Ring) ⑦Sonnenallee (Ring) ⑧Grenzallee (U7) ⑨Blaschkoallee (U7) ⑩Parchimer Allee (U7) ⑪Lipschitzallee (U7) ⑫Wutzkyallee (U7) ⑬Podbielskiallee (U3)

 

東ベルリンの都市復興計画では、当時ソ連で独裁を敷いていたスターリンによる社会主義リアリズムに端を欲したモニュメンタリンズムを基軸に、西側諸国に対する「勝利」を表現した壮大な建築物やその装飾デザインが提案された。復興計画の目玉として、東ドイツ政府はナチスによる一極集中型都市像を彷彿とさせるスターリン通り(Stalinalle)を建設した。この通り沿いは高層の住宅や商業施設・公共施設などが隙間なく建設され、ファサードは古典主義的デザインで飾られた。 スターリンの死後はスターリン批判の影響を鑑みて、東半分をフランクフルト通り(Frankfurter Allee)、西半分をカール・マルクス通り(Karl Marxalle)と改名された。このように、東ベルリンの歴史と”Allee”には何らかの関係があると考えられるが、すべてのAlleeがこれに準ずる訳でもない。


ベルリンの多文化共生は駅名にも現れている?

様々な国や地域から移民・移住者が殺到し、多様な文化が生み出されるベルリン、駅名も外国にルーツのあるものが存在する。

①Mexikoplatz (メキシコ広場駅: S1)②Französische Straße (フランス通り: U6) ③Schwartzkopfstraße (黒頭(黒髪)通り: U6)

②のFranzösische Straße は15世紀から16世紀にかけて行われたベルリンの市街地拡大に合わせ流入したフランスからの移民に起因する。1685年、フランスのルイ14世がカルヴァン派の新教徒の保護を約束していたナント勅令を廃止し、多くの新教徒たちが路頭に迷っていたところに、城塞の建設を決定した大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが同年にポツダム勅令を発令し、新教徒たちの受け入れを始めた。フランスから逃れてきた彼らはユグノーと呼ばれ、約2万人がブランデンブルク地方へ、そのうち約6千人がベルリンへ落ち着いた。当時のベルリンの人口が約1万6千人であったので、移民流入後は人口の約4分の1がユグノーとなり、この変化は都市拡大計画や生え抜きのベルリン市民らに多大な影響を与えたのである。このような時代背景が現在も駅名に残されている。

度重なる破壊と更新を繰り返してきたベルリン、その歴史は味わい深い都市の深みとなり街のあちこちに現れている。駅名もそのひとつとして注意深く見てみると、まだ知らないベルリンの姿が見えるかもしれない。

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